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2007年 8月 16日 16.その9 コミュニケーションと記憶(6)

11 コミュニケーションと記憶(6) 共感という関係性の中に存在する記憶


 これまで、コミュニケーションのことについて記した。では、こうしたやり取りの記憶はどこに存在するのだろうか。すきな人の顔、姿、肌ざわり、を記憶している重症児(者)は多い。すきな「看護師や職員」が、「こんにちは、元気にしてた?」と話しかけると満面の笑顔がかえってくる。家族がやってくると、表情が変わる。脳障害があっても、人の存在の全体性を感じ取ることができるようだ。繰り返しの経験の中で、視覚、触覚、聴覚、嗅覚、味覚が作動し、ある全体性の記憶として、重症児(者)の中に、蓄積されていく。

 以前、重症心身障害の利用者の活動として、「そいとび」という活動を職員が考えたことがある。エアトランポリンを職員もいっしょにねっころがって利用者といっしょに、身体をくっつけてゆれる活動だ。そのときの様子を職員がビデオにとっていた、日頃、どちらかというと気持ちを表情にだしにくい重症心身障害の男性の利用者と男性の職員と「そいとび」をする。そして別の時に、やさしい雰囲気の女性と「そいとび」をする。いつ、どこの活動でもポーカーフエイスで、自らの感情やすききらいを、表現できないはずの男性が、女性と「そいとび」をしたときだけ、なんとなく笑っていることに、ビデオをみていて職員は気づいた。何回やっても同じ反応だった。人の区別がわかるはずがないと思われていた、男性は、職員を認知し、記憶し、判別し、みずからの選択を表明していたのである。

 脳の実質がほとんどないくらい重症の脳障害の利用者が、毎日病棟に訪ねてくる、おかあさんの全体的な感覚をつかんでいる。おかあさんのひざまくらだと妙に緊張が、ゆるむのだ。これは、本人だけに記憶があるというより、おかあさんとの相互作用の中に記憶があるためだろう。また、感覚的なものやそのときの気持ちよさなどを情動感覚として想起するのかもしれない。ほとんど脳実質がない重症心身障害の利用者の方も、皮膚の細胞の感覚器、脊髄神経、そしてわずかな扁桃核の残存や脳幹に存在する神経の中に、相互作用としての記憶がたくわえられているのかもしれない。相互作用としての記憶とは、当事者だけでは、保持されていないくらいの痕跡的記憶が、ある状況や感覚に遭遇するとひきだされてくるものだ。あるいは、その人の、皮膚の細胞や循環する血液や内蔵、そして残損する神経ネットワークにばらばらに存在した記憶が、出会いにより、あるいは繰り返しの状況の再現により、再び統合されてくるといってもよい。

 記憶は人と人との間にある。びわこ学園の創始者糸賀先生が、重症心身障害の世界は、共感の世界である、といった。記憶という観点から見ると、これはとても本質的な、言葉である。記憶は、個人にあるのではない。人との関係の中にあるのである。重症心身障害の利用者の、すきな感触、安心できる姿勢、すきな人の記憶、それらは、重症心身障害の方と取り巻く人達の長い時間の中での、関わり、相互作用としてのコミュニケーションの結果として、人と人との間に蓄積されてくる。そして、両者が共感というまなざしをむけるとき、相互作用としての記憶が、ひきだされてくる。それが、笑顔であったり、なんとなく安心した表情であったりする。重症心身障害の方の記憶は、共感という関係性の中でのみ生き続けるのである。